しゃしくえCD『キラリティ』発売に寄せて"くえたらま"のブログ

しゃしくえCD『キラリティ』発売に寄せて

 「しゃしくえ」は、私の小・中学校時代の同級生である田中氏(以下敬称略)が結成したバンドである。この記事では、田中と私の出会いの経緯について紹介した後に、私情を一切捨てた、一個人としての立場から「しゃしくえ」とその曲の魅力について語りたい。
 田中は小学生の頃から一目置かれる存在であった。小三・四の時は同じクラスであったが、あるクラスメイトのことを「心臓に毛が生えている奴」と称したり、学期末に処分される予定だった教室内の落とし物を「それじゃあ”セリ”始めま~す。」などと言って有効活用しようとしたりするなど(セリは担任に中止させられたが…)、とにかく「言葉のセンスが面白い人」というのが、私の中での田中の第一印象だった。他にも小六の頃、独自に校内新聞を企画して教室の前に何度か貼りだし、それで懸賞企画なども行っていた。他にも面白いエピソードがあるが、ここでは割愛させて頂く。田中は考えることが大人びていて、並大抵の小学生には無い行動力を持っていた。一方、私は特に取り柄の無い、少しひょうきんであるが、至って普通の小学生であった。そんな私が田中との関係はどう始まったのかよく覚えていない。知人の一人くらいの存在だったと私は認識していた。それが、小学校卒業間際に、中学校で吹奏楽部に入ろうと急に誘ってきた。私はピアノを習っており、一応音楽経験はあったものの、最初は乗り気ではなかった。でも、一度ではなく何回も誘ってくれたので、入ってみることにした。交友関係の広い彼にはもっと仲の良い友人が沢山いたであろうが、知人の一人にしか過ぎないであろう私をなぜ誘ったのかは未だに分からない。そんな経緯で、中学校では一緒に吹奏楽部に入り、さらに中二・三の頃は同じクラスとなり、一緒にいる時間がかなり長かった。田中とその周りに集まる人間との交流は楽しく、私にとって田中は少年時代を語るにあたって外すことの出来ない存在となった。
その後、高校は別々の道を歩み、連絡もたまにしか取らなくなった。そんな時、或る日突然、「しゃしくえ」という言葉をバンド名に使いたいと田中からメールがあった。普通は結成時にそれなりの思い入れを込めてつけるであろうバンド名に、なぜそんな意味不明な単語を使いたがるのか、真意は正直全く分からなかった。「しゃしくえ」は私が当時所持していたブログの記事のタイトルとして考えた言葉だが、その単語自体に意味は何も無い。その頃の自分の心境は今の自分には想像も出来ないほど遠いものとなってしまったので、なぜそんな単語を思いついたのか今では全く思い出せない。ということで、「しゃしくえ」という単語にそんなに固執する価値があると思えず、OKしようと思ったが、その時なぜか勿体ない気がした。でも、ダメというのも世間体的にアレなので(みみっちいヤツだと噂が広まりそうだったので)、結局OKした。この承諾が良かったのか悪かったのか分からないが、この名前で続いているのならまあ良かったんじゃないか。
 しかし、その後田中個人名義のCD(Great Barrier Free)を本人から貰っても、ろくに聴かず、放っておいて、ついには紛失してしまった。CDプレーヤーが不調だったというのも理由だったが、対処しようと思えば出来たはずなのにである。それについては、ちょっとした恥ずかしさのようなものがあったんだと思う。歌が聴くに堪えないものという意味ではなく、「あの声が歌ってるよ…」という恥ずかしさだったような気がする。うーん、これじゃどっちにしろ失礼な言い方に聞こえてしまうな。別に歌が下手くそとか、声がうざったいとかいう意味ではなくて…。何ていうかその頃は身内特有の恥ずかしさのようなものを感じていたんだと思う。CDを貰ってもほとんど聴かなかったのはすごく勿体なかったと思う。
 しゃしくえの曲を本気で聴きだすようになったのは「火口」というタイトルのCDからだった。実はこのCDも長らく自宅の部屋の装飾になっていた。聴かなきゃならないけど恥ずかしくて聴けない。だけど押入れに仕舞ったら絶対に忘れて一生聴かない。CDは心のしこりのように部屋の同じ位置(本棚の四段目)に鎮座していた。それが、いつだったか正確には思い出せないけど、CDに向き合う気になった。時間が経ちすぎて、記憶が薄れたというのもあるかもしれないが、とにかく置いたままのCDをどうにか供養しなくちゃならないと思った。CDプレーヤーは相変わらず壊れたままだったので、パソコンでCDを取り込んでWalkmanに移してアンプ付きの外部スピーカーにつないで再生した。
 しゃしくえの曲はなぜ魅力的なのだろうか。しゃしくえのCD制作に関わった音楽家らが学術的な見地からしゃしくえの魅力についてブログで紹介しているのを、数件発見したため、ここでは音楽的知識・技術を持たない一般人の立場からしゃしくえの音楽を考察してみたい。「しゃしくえ」の音楽は、一見(一聴)してみると、決して耳あたりの良い音楽ではない。珍妙な歌詞、そして癖の強いボーカル(悪口ではない)。並大抵の人間であれば、理解できず、恐れおののき逃げ出してしまうだろう。最近の音楽はとかく分かりやすいことが好まれる。恋愛と呼べば聞こえの良い馬鹿馬鹿しい男女交際、仕事にめげずに頑張るオレ(笑)などを題材としていれば、あとは詞が適当であろうが、メロディが陳腐であろうが、拍手で迎え入れられる阿呆らしい風潮だ。かつては、音楽が強烈なメッセージ性を持っていた時代もあった。少なくとも1980年代までそうだったと記憶している(お前何才だよ笑)。その後、バブル時代の都会的な音楽を経るが、その頃から既に衰退の兆しは見えていた。経済的には絶頂期にあったが、目的を失った音楽は息切れ状態にあったのだ。そして、バブル崩壊後、何とも形容しがたい音楽の時代になった。失われた10年と呼ばれる長い不況の間に、逆境や不満を受け流すことが利口であると思われるようになり、音楽に癒しや景気づけのような一時的な快楽しか求めなくなったからとも言える。その結果、このコラムの読者の多くであろう一部の音楽愛好家を除き、大衆には耳あたりの良い音楽しか受け入れられなくなった。前節で述べた風潮に抗い、「しゃしくえ」は結成当時から信念をもって、人間の存在にまつわる根源的なテーマに迫ろうとしているように思える。総じてメロディは美しく、概してスローなテンポで一言一言聞き取りやすいように語りかけるように歌っている。しゃしくえの曲には、一般的なポップスには必ずといっていいほど含まれる”季節感”と呼ばれるものが無い。曲名に”夏”という単語を有する”夏に美味しい水”という曲はあるが、それにしても夏が来て心が躍るみたいな陳腐な感情を歌ったものではないし、他の曲を聴いても具体的に四季をテーマにした曲は無かったと思う(あったらスマン)。例えば、春が来て阿呆みたいに嬉しいとか、夏の海で男女混合でワイワイとか、鈴を安易にシャンシャン鳴らしまくりのクリスマスソングとか、しゃしくえには一切無い。別にそういうのは有名なアーティストが毎年腐るほど歌っているので、別にしゃしくえに求めなくともよいと思う。歌っている人の性別もぼやかされている気がする。それは極めて不思議な感覚である。性別を取り去ることによって、純粋な一人の人間として音楽に向き合うことを可能とし、これと季節感の無さこそがしゃしくえの曲に普遍性を生む要因となっているのではないか。しゃしくえの曲を聴いて思い浮かぶのは、何も落ちてないし、何も生えていない荒涼とした海岸である。空には灰色の厚い雲が垂れ込めている。波打ち際には茶色の木切れだけが打ち上げられている。分かりにくい例で申し訳ないが、近いものをあげるとすると、映画『バイオハザード4』の冒頭に出てくる海岸である。それがしゃしくえの曲に流れている”一貫した不思議な世界観”である。生命が誕生したころ(海でプランクトンが誕生し始めたころ)の風景もこんな感じだったんじゃないかと思う。しゃしくえの曲は私たちに人類としてのDNAの中の彼方に眠っている記憶を呼び起こしてくれるような気がする。そして、私たちを俗世間から引き離したのちに、人間の存在そのものにまつわる根源的なテーマを静かに問いかけてくる。でも、その問いの答えは決して出されない、紀元前から偉大な哲学者らが取り組んできたテーマを、21世紀に生きる数人の日本人の若者数名だけで解明できるわけがないし、そもそも解明することができたらとんでもないことが起こる気がするので、もし解決できることが判明したら、しゃしくえには直ちに解散していただきたい。地球が爆発するくらいのヤバいことが起きそうなので(笑)。
 『キラリティ』発売に寄せるコラムは以上である。これを読んでしゃしくえとその音楽に興味を持っていただければ幸いである。しゃしくえが二枚目のCDを発売するなら、私は必ず買いに行こうと思っている。

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